Column

2016/12/21

心がこもった千円札

※このコラムは東京新聞(2016年12月4日(日))に掲載されたものです。

「心がこもった千円札」

 アイヌ語で「清らかな水の流れる場所」という意味だという岩手県平泉町安家(あっか)。
 「かむら旅館」に着いた時には、もう日が暮れていた。岩手県は広い。八月末の台風で大きな被害が出た町を回って、最終地点を安家にしたのだが、約束の時間が過ぎてしまっていた。
 「みんな帰っちゃったよ。楽しみにしていたのに」。女将が出てきた。旅館は美しい安家川沿いにあり、例年ならマツタケをはじめとするキノコ採りや紅葉を楽しむ人でにぎわう季節だったが、その安家川が氾濫し、土砂が流れ込み営業できなくなっていた。
 遅くなって申し訳ない気持ちでいると、誰かが防災無線で「八神純子さんが来ましたよ~」と放送していた。すると、晩ご飯の支度もあるだろうに、一度帰った人たちがまた戻ってきてくれた。そうなれば、きちんと歌わなければならない。CDプレーヤーの調子が悪く音が出なくても「ミニコンサートは中止」なんて言えるはずもない。
 まずはカラオケなし、手拍子だけの「みずいろの雨」を歌う。するとCDプレーヤーがどういうわけか復活して、さらに何曲か披露することができた。最後の「翼」を歌うころには、みなさんの緊張感は消え、笑いもある和やかな空気になっていた。
歌い終えた時、左端で静かに聴いていてくださったご婦人がバッグの中をゴソゴソしているのに気付いた。携帯電話でも捜しているのかなと思ったが、そのご婦人は立ち上がり、私のところまで来た。そして私の手に一枚の千円札を握らせ、両手で柔らかく包んでくれた。
 私は「被災地ではお金をいただかない」と心に決めて活動してきたので「いや、これは・・・」と言葉にならない言葉で返そうとした。ご婦人はそれを制すように「いいのよ、いいのよ」と何度もうなずきながら、私の手を包んだまま「歌をありがとう。楽になれました」と耳元でささやいてくれた。
 私は「すみません」「ありがとう」と頭を下げながら、とても温かい気持ちがこもったその千円を受け取った。千円札を握ったまま、あいさつを終えると、もうご婦人の姿はなかった。
 私のお財布を開けると「決して使わない」と決めて別のポケットに入れた一枚の千円札が見える。あの千円だ。まるで「おひねり」のようにいただいた千円からはずっとぬくもりを感じる。銀行の自動預払機から出てきた無機質な千円、東京でランチを食べれば、すぐになくなってしまう千円と貨幣価値としては同じでもまるで重みが違う。コンサートでいただく何千円にもきっと同じような思いがのっているはず。大きな災害に遭った土地に行って、歌を届ける意味を、また教えてもらった。

2016/11/08

八神流うがい健康法

※このコラムは東京新聞(2016年11月6日(日))に掲載されたものです。

「八神流うがい健康法」

 スタッフには大いに突っ込まれそうだが、自分ではのんきだと思っている私でも、職業が歌い手とあって、声の調子だけは神経をかなり使う。朝起きて「あー」と発声すれば、その日の調子が分かる。
 声はとても正直だ。寝不足になれば、肺活量が落ちて声の伸びが悪くなる。お酒を飲みすぎると声はかすれ艶がなくなる。いいかげんな食事をすると、声に力がなくなる。つまり、良い歌を歌いたいなら、健康的な生活を送ることが肝要なのだ。
 とはいえ隔離室にいるわけにもいかない。地下鉄にも乗るし、多くの人が集まる場所に出るのも仕事。米国との行き来で使う飛行機内は、いつもカラッカラだ。マスクをしても、どんなに注意していても風邪っぽくなり、喉の調子が悪くなることはある。
 「ちょっとおかしいぞ。」と思ったら、八神流うがいの出番だ。コップ一杯のぬるま湯に、小さじ三分の一ぐらいの食塩を溶かす。この組み合わせが一つ目のポイントだ。
 単なる塩うがい、ではない。ここからが二つ目のポイント。軽めに一口含んだら、大きく口を開けたまま舌を前に出し気味に、喉の奥で「えー」と言いながら、ガラガラガラガラ。最初はむせてしまうこともあるが、慣れると喉の奥の奥や、喉と鼻の間のイガイガした部分まで、しっかり届く。これを一日六回ほど繰り返すと、熱も出ずにいつのまにか症状は消えていく。
 この八神流。きっかけは米国で風邪をひき、喉を痛めたこと。米国の医者は風邪ではよほどのことがないと、抗生物質などを出さない。なので市販の風邪薬や解熱剤を服用し治すしかない。
 その時、思い出したのが、名古屋の実家近くにあった耳鼻咽喉科の先生。喉が痛いときには、大きく「あー」と開かせた私の口から舌をガーゼで引っ張り、次は私に「えー」と言わせたまま、茶色の薬を喉や鼻の奥の赤くなっている部分にサッと塗ってくれた。「あれが効くなら…」と、うがいも同じようにやってみたら…実に気持ちいい。うれしくなって何度も繰り返しているうちに症状が治まった。
 以来、何十年もうがいをし続け、幸いにもこればで風邪でコンサートをキャンセルしたことがない。私にとっては一年間で数十本するステージのうちの一本でも、来てくださるお客さまからすれば、一年に一本、もしかしたら生涯に一本の私のステージかもしれない。そう思うと歌い手として常に声をベストに保たなければならないし、どんなステージも全力で歌わなければ、と気持ちが引き締まる。
 血圧の関係などで、塩分摂取に制限がある方にはおすすめできないが、風邪予防を心がけたい人、風邪をひきかけた人。八神流うがい健康法をぜきともお試しあれ!

2016/09/26

「歌う」ことが「遊び」だった

※このコラムは東京新聞(2016年8月21日(日))に掲載されたものです。

「「歌う」ことが「遊び」だった」

「ザ・ベストテン」という歌番組で、司会の久米宏さんが「今週のスポットライト!」と呼び込んでくれた。心臓のドキドキは最高潮。「みずいろの雨」を初めて人気番組で歌うから、ではなかった。「もしかしたら、ザ・ピーナッツのお姉さんや妹さんが見ているかもしれない」と思ったからだ。
私の歌のすべての原点は、双子の姉妹、ザ・ピーナッツにある。私が小学二年の特、ひとつ年上のいとこ、よっちゃんと、ザ・ピーナッツのコピーデュオ「ザ・チェリーズ」を結成した。いち早く新曲を買いに行くのがよっちゃん、その新曲のハーモニーを聴き取り、よっちゃんに教えるのが私の役目だった。
ザ・ピーナッツが英語で歌えば、意味などそっちのけで、歌詞を書き取り「カタカナ英語」で歌った。
お得意は「恋のフーガ」。「追いかけーて」という歌い出しの後のティンパニーのドドンに合わせて肩をククッと動かす振りは、もちろんマスター。コンクリート造りの階段で歌うと、響いてうまく聞こえることも覚えた。きれいにハモれると気持ち良くて、うれしくて何度も何度も繰り返し、振りを失敗すると笑い転げた。
「歌う」ことが、「遊び」だった。
ザ・チェリーズ結成から三年が過ぎたある日、日本舞踊のお師匠が本物のザ・ピーナッツに会わせてあげる、と言う。場所は名古屋駅近くの名鉄ホール。お師匠に付き添われ、私たちはコンサートが終わるのを今か今かとひたすら舞台の下手で待った。
幕が下りた。新曲「ガラスの城」のレコードジャケットと同じピンクの衣装を着て、ビーズの長い飾りを片手で束ねたザ・ピーナッツが歩いてくるのが見えた。気がつけば、憧れのザ・ピーナッツが前に立っていた。握手をしたのか、言葉を交わしたのかも記憶にない。覚えているのは、ザ・ピーナッツがお人形のように小さくてきれいで、とてもいい匂いがしたこと、それだけだ。
ザ・ピーナッツの育て親である宮川泰さんのご子息、宮川彬良さんの指揮で、ヒット曲「恋のバカンス」を歌うコンサートの直前、妹の伊藤ユミさんが亡くなったことを知った。プロになってからバッキングボーカルのアレンジが楽にできるのも、どこか洋楽の薫りがする曲作りも、みんな、ザ・ピーナッツのおかげだ。
私はザ・ピーナッツと同じ名古屋育ち。ザ・ピーナッツは結婚から引退と現役時代が短かったし、ザ・ピーナッツも中学三年の時に解散したけれど、私の目標は生涯現役で歌ってゆくこと。
名古屋にはきんさんぎんさんもおったがねー。


2016/09/23

異国の地で学ぶ

※このコラムは中日新聞(2016年9月1日日(木))に掲載されたものです。

「異国の地で学ぶ」

カリフォルニア・サンノゼで行った東北復興チャリティーコンサートの募金で、高校三年生から大学院一年生までの学生を、最先端企業が集まり「イノベーションの聖地」と言われるシリコンバレーに招待した。航空券代もホテル代も一切不要。ただし東北復興への思いを書いたエッセーか動画の提出が条件。応募してきた四十五人から、オンライン面接で八人を選んだ。うち六人は東北からの参加。私は「保護者役」として成田空港で合流した。
サンフランシスコの爽やかな風を感じながら、空港から直行したのはオラクルという世界第二位のデータベースの会社。もちろん日本人も働いている。学生たちは「この会社に入ったきっかけは?」「日本の会社と何が違う?」などと質問を浴びせた。
夜にはアメリカで生まれ育った日本人と会った。医師を目指しているという彼は「ボランティア活動の経験から、自分の手で直接人を助けられる『医師』を選んだ」。時差ぼけ気味だった学生たちは「自分の手で」という言葉に強く反応した。
皆が口をそろえて「カルチャーショックだった」と話したのは、グーグル本社。子供や愛犬を連れての出勤もできるし、ソファに足を投げ出してパソコンに向かってもいい。でも仕事は厳しい。一見優雅に見えても結果を出さないと、いつしか彼はそのソファから消えているらしい。
アップルに勤める日本人もいつ解雇されるか分からないと言いながらも、シリコンバレーで働き続けたいという彼らの強い願いを感じた。
私にも意義深い講義だったのは、スタンフォード大学の教授のお話。「優れたイノベーションはシンパシー(同情)からではなくエンパシー(共感)から生まれる」という言葉は、私の最近の歌や支援活動の背中を押してもらったようで、ちょっとうれしくなった。
出会った人たちには共通点があった。シリコンバレーが好きなこと。結果が求められること。失敗を恐れず、自分の力で切り開こう、成し遂げようとしていること。当たり前に聞こえるが、実際にそうするのは難しいことばかりだ。
同じ日本でありながら、異国の地で挑戦する姿に、学生たちはどんな刺激を受けたのだろう。最終日、学生たちはそれぞれが考えた課題を発表した。欲を言えば具体的な方法論、How?を自分の言葉で聞きたかった。ひとりひとり、個々と話し合いたかった。もっと時間が欲しかった。
シリコンバレーツアーで得たものを、どう東北の復興に役立てるかは、学生たちのこれからにかかっている。一方で私にも「もう少し、アメリカ人と話す機会をつくるべきだった」と反省点が残った。次回はもっといいツアーにしたい。

2016/07/13

平和願う心 受け継いで

※このコラムは中日新聞(2016年6月23日(木)朝刊)に掲載されたものです。

「平和願う心 受け継いで」

 この原稿が掲載されるのが六月二十三日だと聞いて、因縁めいたものを感じざるをえなかった。「6・23」は沖縄では「慰霊の日」だ。四年前のその日、私はひめゆり祈念館の館長だった島袋淑子さんに出会った。島袋さんの言葉は今も胸に残り続ける。「戦争は絶対にいけません。何があっても生きるんです」
 アメリカに住んで、まもなく三十年。二人の子供を産み、育てる中で、軍隊の存在や自分の命をどう守るかを考えさせる出来事に何回か向き合ってきた。バレーボールが大好きな長女の最初のボーイフレンドはバレーボール部の先輩、ダニーだった。赤毛のダニーは凧(たこ)のように誰よりも高くヒラリ!とジャンプした。バレーボールで奨学金をもらい大学に行きたいと私にも話してくれた。
 ところが、身長が低いこともあってその夢はかなわず、選んだのは軍隊だった。「僕の両親はお金持ちでもないし弟もいるので、良い教育を受けるためにこの道を選んだんだ」とダニーはほほ笑んだが、私は信じられなかった。兵士になるのは、国を守りたい一心からだと決めつけていた。「生きるために軍隊に入る」という矛盾するような選択をせざるをえないとは…。
 それからまもなく、赤い巻き毛を刈り上げ、軍服に身を包んだダニーはあいさつに来た後、イラクへと発(た)った。中学生のころから私を慕ってくれたダニー、私にとって初めての戦場への見送りは悲しかった。
 先日、起きたフロリダ州の銃の乱射事件はアメリカ史上最悪とされる。「全員が銃を持てばこの街は安全になるのさ」と真顔で言う友人が近所にいる。車庫には冷凍庫の横に物々しい大きな金庫のようなものが置いてあって、中にライフルや銃が保管されている。友人はそれを開けて自慢げに見せてくれたのだがあまり良い心地はしなかった。
 街中には洋服やバッグと一緒に銃を並べて売る店もある。隣人が近くの道の真ん中で銃に打たれ亡くなったこともあった。わが家でも「自己防衛のために銃を置くべきか」と何度話し合ったことか。だが、重く冷たい銃を手にして分かったことは「私には使えない、使いたくない」。結局、銃は持たず、もっと安全な郊外へと移り、自分を守ることにしたのだった。
 次元も時代も違うけれど、島袋さんの話が私の中にすっと染みていったのは、アメリカの文化や習慣の中でのこうした経験があったからなのかもしれない。壮絶なお話を聞いたその夜、沖縄の海風が私に運んで来たようにできた曲が「ひめゆりの丘」だ。島袋さんの平和への願いを少しでも受け継いでいきたいと、この季節になったら必ず歌うと、私は決めている。



6月11日保谷のこもれびホールでの「音楽のレシピ〜チョコっとライブ」写真です

2016/06/02

氷山の一角の一角を崩す

※このコラムは中日新聞(2016年5月19日(木)朝刊)に掲載されたものです。

「氷山の一角の一角を崩す」
東日本大震災以来、音楽の力を借りていろいろな支援を続けてきた。自分なりに、自分のできる範囲で一生懸命やってきた。それでも必要とされる支援は減らないし、その内容はより多岐で、高い質が求められる。「何をしても氷山の一角にもなっていないのではないか?」という焦りも含んだ悔しさを感じていた。
四月中旬、熊本地震が発生した。熊本では今年一月、宮城県女川町を支援しようと、JA阿蘇小国支所の皆さんが「女川チャリティーコンサート」を開いてくださったばかり。イベントで知り合った方々の無事を聞くまでは、気が気でなかった。驚いたのは「何かしなければ…」と考えている私を追い越して、女川の人たちが先に動いたことだった。 水の配給に使うボトル、離乳食、便秘薬、雑巾などの支援物資をすぐに送っていた。女川の「ゆめハウス」の八木純子さんは「だって恩返ししたいじゃないですか!」。
はっと気づかされた。女川からの支援物資は「氷山の一角」かもしれないが、彼女たちは全くそんなことは気にしていない。「ボランティア活動はやれることをやれるだけ、ちょっとしたことも大事な支援だと信じることが本当の支援になる」。分かっていたつもりだったのに、分かっていなかったのかもしれない。
それなら私は私ができることをするだけだ。熊本地震の前に、東日本大震災の復興支援のためにと企画されていたハワイでの「Japan Tsunami Restration(津波からの回復)コンサート」は、ジャズピアニストの大江千里さんをはじめとする出演者の全員一致で、熊本の支援もすることになった。イベントは二回目とあって、ボランティアの間で「お久しぶり!」のあいさつが飛び交う。おすしのお米は福島産、各テーブルの真ん中に置かれた淡いピンクと深い紫色のトルコギキョウは熊本産だった。
イベント会場でもボランティア団体「なでしこクラブ」のなでしこたちが、おそろいの赤いTシャツを着て、東北のジャムや、Tシャツから作った草履や七味唐辛子、気仙沼、釜石、塩釜の海産物などを売っていた。千里さんは熊本を思って作ったピアノ曲「クマモト」を演奏し、いよいよ私の出番。日本になかなか帰ることができない方々の思いが、被災地へと届くことを願いながら歌った。
東京に戻ると、熊本県のアンテナショップを多くの人が訪れていることを知った。背伸びしなくてもいい。身の丈でいい。自分ができることをやればいい。もちろん東北への支援はこれからも続ける。でもそれに加えてできるだけ早くに熊本へ、アカペラでもいいから歌を届けたい。氷山の一角の一角でも崩せたらいい。今はそう思える。


2016/04/22

信頼は作れる

※このコラムは中日新聞(2016年4月14日(木)朝刊)に掲載されたものです。


「信頼は作れる」

私がしたフェイスブックへの投稿に、音楽業界関係者は眉をひそめた。

2月19日、名古屋の愛知県芸術劇場で行ったコンサート3日前の「チケットの売れ行きが悪いのでお友だちも誘ってきてね」は、どうやら「本人がすることではない」らしいし、「イベンターに失礼」らしい。名古屋生まれの名古屋育ち。30年ほど前に渡米し日本の音楽シーンを離れたが、5年前から音楽活動を再開した。そんな私は何を言われてもいいと決意して投稿したはずだったが「やり過ぎたかな」と下を向きそうになった。

救ってくれたのは、直後から続いたファンの投稿だった。「四国から行きます」「行けないけれど名古屋の友だちに連絡しました」などなど多数。後で知ったが、定職と副業2つを持つ埼玉のシングルマザーは「名古屋までは無理」と思っていたのに、夜行バスと浜松の友人の車を組み合わせ来てくれた、という。

かつてファンとのやりとりは手紙だった。若き日には、つたない字で一生懸命、ファンレターに返事を書いていた。一対一のやりとりは濃厚ではあるが、全ての方には返事が書けない。ファンの方の思いを知るにも、私の考えを伝えるのにも時間がかかった。それがソーシャルメディアの誕生で一変した。私はより多くの方に思いついた時に思いついたことを時差なく伝えられるようになった。それに呼応するファンの声もすぐに分かる。

名古屋公演の幕が開いた。ファンの方の懸命な努力にも関わらず、私の力不足もあり席は全て埋まらなかった。でも歌ってすぐに気づいた。「自分たちが支えているから大丈夫だよ」という、包み込まれるような安心感と、他の会場ならばアンコールに近くになって生まれる一体感までがあった。

「特別な想いで始めたコンサートでしたが、もっと特別な想いで終えることができました」。アンコールではもう感謝の言葉しか出なかった。会場の雰囲気は私のベストだと胸を張れる歌と、ベストだと言えるバンドの演奏を引き出した。

ファンレターのように濃密ではないかもしれないが、ソーシャルメディアでも、多くの人たちと信頼関係をつくることができる。私は一つの書き込みでそれを学んだ。

私のコンサートを何十回も見てくれているファンが、これもソーシャルメディアで、伝えてくれた。「純子さんの投稿に呼応した多勢のファンとともに、会場に駆けつけられなかったファンも含めて、一緒に作りあげたライブだった。興行としては成功ではないかもしれないけれど、記憶に残る特別なライブだった」と。


2015/03/31

かれ木に花を咲かせましょう

※このコラムは東京新聞(2015年3月31日(火)発行分)に掲載されたものです。
かれ木に花を咲かせましょう
八神純子
 この歌を一緒に歌ってCDにした岩手県大槌小学校六年生の卒業式に参列させてもらった。76人の卒業生には、2011年の暮れ、弓道場でのキャンドルライブで、この歌を作るきっかけをくれた女の子3人組もいた。みんなは出会った頃よりずっと大きくなって、きりっと引き締まった顔にスーツやドレス、羽織・袴姿がよく似合っていた。
 袴姿で卒業証書を読み上げ、子どもたちに授与する校長の菊池啓子先生の表情が、子どもごとに違うのに気が付いた。ある子には母のように微笑み、ある子にはちょっと厳しく。ある男の子が壇上に上がると、声を詰まらせ見つめたまましばらく涙ぐんで何も言えなかった。菊池先生と子どもたちの間でしか分からない絆があるのだと、とても感動した。  
 「旅立ちの言葉」が終わると、3人組の1人がピアノで卒業生たちの歌の伴奏を始めた。驚いた。津波で母親を亡くした彼女は、前日に一緒にご飯を食べた時には手料理でお兄さんを喜ばせていると嬉しそうに話していたのに、伴奏の話は全くしなかった。ピアノを弾く姿がどこか私に似ていると思えた。  
 卒業生の退場で流れたのは、みんなで収録したこの歌だった。歌詞の最後は「愛し合って夢つなぐ 命のかぎり」。絆に支えられ、子どもたちはきっと次々と花を咲かせてくれるはずだ。  
 さて、長期間、コラムを読んでいただき、ありがとうございました。次はライブ会場で会いましょう。

2015/03/05

優しさを歌で運ぶ

※このコラムは東京新聞(2015年3月3日(火)発行分)に掲載されたものです。
優しさを歌で運ぶ
八神純子
 宮城県女川町の「名物お母さん」八木純子さんと、熊本でのチャリティーの話をしていたら鯛焼きの話題になった。仮設住宅のお母さんたちと、サンマをかたどった「さんまnaたい焼」を作る八木さんの悩みは「さんま」の周りにできる生地のはみ出した部分の「バリ」。いちいちそれを切って捨てるというので私が一言。「羽付きってどう?」
 この「羽付き」、実は受け売りだ。昨年、子育てをテーマに講演を依頼された兵庫県加古川市で、教育委員会の方に地元で人気の鯛焼き屋さんに連れて行ってもらった。「羽付き?なし?」。何のことか分からなかったが横で食べる人を見て納得。迷わず羽付きを頼んだ。
 先月二十一日には、阪神・淡路大震災をきっかけに、地球環境を考え続ける神戸の高校生や大学生と、宮城県の高校生が参加するシンポジウムで進行役を引き受けた。話題はエコ生活から発展途上国での女性たちへの援助まで幅広い。
 仮設住宅の人たちが元気でいるためにと考える八木さん、病気でゆっくりしか歩けないのに鯛焼き屋まで連れて行ってくれた教育委員会の方、震災で自然の恐ろしさを知り地球の未来を考える大学生や高校生、東北への復興支援活動で出会った方々に共通するのは優しさだ。
 いただいた優しさをつないでいくには、歌しかない。歌うだけでなく優しさを運ぶ歌い手になりたい。少し欲張りになったみたいだ。